大切な思い出

誰もが一度は押す機会のある実印。その用途はさまざまだと思います。

「最愛の人と結婚する」「新しい家族になり家を買う」「収入も安定し、新しい車に買い換える」 希望に満ちた将来に向けて実印を作るお客様がいらっしゃいます。

そんなある日、車椅子に乗った白髪混じりの女性が、お嬢様と一緒に来店されました。ご注文内容を伺っていくと、実印を作りに来られたとの事。はじめは明るくお話されていましたが、本当は旦那様がガンでお亡くなりになり、自分でしなければならない諸手続きの為に、はじめて実印が必要になったのだそうです。

話しを進めていくうちに、色々な思い出が甦ったのか、涙ぐみながら旦那様との溢れる思い出を話して下さいました。最期は病院を退院し、大好きな自宅で安らかに息を引き取られたと、笑顔でお話されました。

お嬢様は、「母は父の話になるといつもこうなんです」と少しほほえましい顔で説明されました。私もどんなに仲むつまじく素敵なご夫婦だったのかなと想像し、心温まる思いでした。

実印を作る事で、これから一人で頑張っていくんだという思いが強まったのか、帰られる時は、心なしか背筋が伸びていたように思えました。

人生の節目に必要になる実印。その実印は、人生の中のとても重要な機会に押すものです。そして人間の思いがこもるものです。  

一度作った実印は粗末に扱わず、大切な思い出と共に大事にしてあげて下さい。

 

おばあちゃんごめんね

社会人となり、念願のひとり暮らしをはじめて二年。ひとり暮らしも慣れてきて…

今度は車が欲しくなり、中古車を購入する事になり印鑑登録用の印鑑が必要になりました

確か、おばあちゃんが就職のお祝いに「これがおまえの実印だよ」と言って印鑑を作ってもらったはず?

あちこち探してみたり実家に電話したりと探してみたが見つからない。引越しのあと段ボール箱の中にあったはずなのに・・

必要でない物はなるべく処分しようとしていたから、もしかして他の物と一緒に捨ててしまったのかもしれない。

部屋を見回すと…昨日着ていた服はそのまま脱ぎ捨ててあり、洗濯物はハンガーに干したまま。ゴミも何日も出さずに袋がたまっていて、流しにはカップラーメンの容器が…

「俺、何をやっているんだろう」社会人になり、ちょっと有頂天になっていたのかも…印鑑を私に作ってくれたおばあちゃんは去年の夏、亡くなってしまった。おじいちゃんが亡くなった後、年金生活だったおばあちゃん、私のために作ってくれた大事な印鑑を私は捨ててしまったのだ。「おばあちゃん、ごめんね。」

それから私は印鑑について本を読んだり、ネットで調べたりして自分なりに勉強した。

そして気がついた! 印鑑にはおばあちゃんの「愛」がこめられていた事を。

その頃、印鑑の大切さなんて知らずにいたから、おばあちゃんがどんな思いで印鑑を作ってくれたのかを考えると胸が痛くなり、涙が自然と込み上げてきた。何日か後、私は印鑑屋で実印を作った。実印は私自身を証明するものであり、私自身の分身のようなもの。私の人生をこの印鑑が背負ってくれるのだ。押す場面はいつ、訪れるかわからないがこの印鑑を生涯、大切にしていきます。

実印を持った私は、初めて本当の社会人となれた気がします。

 

娘を持つ父親の気持ち

以前、私の父と同じ歳ぐらいの少し強面のお客様がふらりとご来店なさり、『おねーちゃんはいくつだ?』と突然おっしゃいました。

私はその時二十代前半だったかと思いますが仕事の経験上、メーカーさんやお客様には三十歳と偽っていましたので、その時も三十歳だと答えました。

すると今度は、『結婚はしてるか?』と質問されましたので、いいえ。と答えましたら、少しほっとした様な顔をされたかと思ったら今度は難しい顔をされて、『また今度くるわ・・・』といい、帰ってしまわれました。

私と他のスタッフはただただ呆然とするばかり。あのお客様はいったい何が知りたかったのだろう?私に何か用があったのだろうか?

色々記憶を呼び起こしてみても、初めて拝見するお顔でしたし、何がなんだかわからないままでいると、次の日もそのお客様はふらりとやってきました。

そして印鑑の棚のところで腕組をして、困った顔をされていたので、『ご印鑑をお求めですか?』とお声をかけてみました。すると、お顔を真っ赤にされて

『えーーっと・・・あの・・・・結婚するのに印鑑は必要かな?』と小さい声でおっしゃったので、『婚姻届に押す印鑑は必要でしょうけど、それ以外に女性の場合は姓が変わるので必ず必要ですよね、男性は婿養子さんに入られるなら新しい姓の印が必要ですねぇ。お客様が使われる印鑑をお探しですか?』

『いや、俺じゃなくて娘のなんだけど』と(ちょっときまずそうな雰囲気)

『お嬢様へのご結婚の贈り物ですね?♪』とにこにこしながら言うと、

『贈り物ってわけじゃないんだ!俺はお祝いしてやる気持ちなんてこれっぽっちもないんだが、あいつのはんこは三文判しかないみたいだから・・・』

と相変わらず真っ赤なお顔でうろたえておられましたので、何だかそれだけでも心があったかくなって、『お父様からお嬢様へお祝いに印鑑を贈られるなんて、素敵な関係なんですね』と私は言いました。

すると、そのお客様は急に怒ったような悲しいようなお顔をされ、『そんなことない俺は娘に嫌われてんだ』とぽつりとおっしゃり、それから『それがね・・・』とお悩みの内容を話し始めてくださいました。実はお嬢様がこの間、初めて付き合っている彼を家に連れて来て結婚すると言ってこられたようです。それがお客様にはどうにも受け入れられなかったようで、その彼に対して酷い態度をとってしまったようでした。そしてその事でお嬢様と大喧嘩をしてしまい、しまいには『結婚なんて許さんぞ!』と売り言葉に買い言葉で言ってしまったそうです。言った事を後悔はしているものの、未だに仲直りも出来ず、そうこうしている内にお嬢様が結婚する前に家を出ると言い出してしまったようで、どうしたらいいか、と悩んでいたようです。

考え事をしていると、いつも気にも止めていなかった通りにはんこ屋があることに気づき、店内を覘いてみると娘と同じぐらいのおねーちゃんがいたから、つい昨日はおかしな事を聞いて悪かったね。とおっしゃってくださいました。

父親として、娘の結婚は嬉しいことでもあると同時にこんなにもとっても寂しいことでもあるんだなぁ・・・と、私は何だか切なくなってしまい、何とかこのお客様とお嬢様に和解していただきたいと思い、『お嬢様には結婚なんて許さないとは言ったものの、本当は喜んでおられるんですよね?でしたら、口で言うのもなかなか言いづらいでしょうし、お嬢様が結婚されて変わる苗字でフルネームの実印を贈られて、お嬢様の結婚を喜んでいる事をお伝えしてはいかがですか?』と言ってみました。

お客様は少し考えたあと、『印鑑なんていらないなんて言われたら困ってしまうけど・・・』と弱気な感じでいらしたので、『女は結婚して初めて自分が結婚したんだって実感するのって、苗字が変わることだと思うんですよ、だから彼の苗字になった自分の印鑑はとっても喜ばれると思いますよ!それに印鑑は良い物で長く使える物だとまあまあのお値段しますから、自分で買うにはちょっと躊躇してしまう金額も贈り物なら大変ありがたいと思われるんじゃないでしょうか?私も結婚したら親戚にお祝いは良い印鑑がいいって言おうと今から決めてるんですよ~♪』と言ってみました。

お客様はようやく明るいお顔になり、その後は書体やケースなど色々ご相談させていただきながら、象牙の実印をご注文くださいました。翌日、引き取りに来られたお客様に仲直りできます様に。とお伝えしました。

それから一週間経ったある日、またそのお客様がご来店になり、『娘に印鑑を渡したら、とても喜んでくれて、やっと仲直りもできて、彼氏を呼んで3人で今後の話とかできたんだよ。』と嬉しそうに話してくださいました。

ん・・・?三人? 奥さんは・・・?と思っていると私の考えてる事がわかったのか、『うちはかあちゃんが娘を産んで少ししてから亡くなってね、娘と二人だったんだけど、娘が喧嘩してる時は家を出るって言ってたんだけど、こないだ彼氏と話し合って、一緒に住むって言ってきたんだよ』とますます嬉しそうにおっしゃいました。

『俺は別に1人でも大丈夫だって言ったんだけど、どうしてもっていうから・・・』なんておっしゃってましたが、本当に嬉しそうで、私もとても嬉しくなりました。

すると、お客様が、『娘に印鑑なんてって思われるかと思ってたけど、おねーちゃんの言う通り、嬉しかってたみたいで仲直りできたよ。ありがとうね!それで、話を聞くと彼氏もロクな印鑑持ってないみたいだからあいつの分も買ってやろうと思ってるんだけどどんなのがいいかね?』というお言葉をいただき、その時初めてこの仕事をしていて良かったって思えました。

結局、彼氏さんの分もお嬢様と同じ象牙で一回り大きい物を贈呈用としてお買上くださいました。

この仕事をしていて、『たかが印鑑・されど印鑑』をものすごく実感できたのと、娘を持つ父親の気持ちをほんの少しでも理解できた事がとても嬉しくて、こうやって少しずつでいいから成長していこう!と気持ちを新たにした私でした。

 

Fin